学徒動員の想い出を
2013-01-27


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12年前のホームページに書いた散文を見つけて学徒動員で工場に通った頃を思いだし、アルバムを捜したら腕章などの小さな写真も。
ここで書いてきたことと重なるかも知れないが懐かしくて大部分を引用した。
忘れっぽくなっているのに不思議と今もあの頃の記憶は鮮明だ。

  ーー昭和19年学徒動員で工場へーー
昭和19年に京都のD女専に入学し、学校の敷地内の寮に入った。
戦局は厳しく内地の生活も配給制などで苦しくなってきていたが、寮の食堂ではご飯と一応のおかずがついていた。
初めて干し鰊を戻して甘辛く煮たのを食べて京都らしいなと思った。
今、京都に旅行して鰊そばを食べるとあの時の味覚が蘇えって懐かしい。
キリスト教系の学校で学内に戦時色はあまりなく毎日の礼拝でお祈りの最後に戦地の兵隊さんの武運長久をお願いするくらいのもので呑気に学園生活と寮生活を楽しんでいたのである。

大きな変動が起こったのは初冬にはいった頃だったと記憶している。
突如として学徒動員の国家命令が下った。
一年生だった私達は京都近郊の飛行機工場に配属された。
18歳の少女なんてのは順応性があるというか、好奇心に溢れているのか、ショックより生活の変化に新しい刺激を期待してちょっと興奮していた。 
恥ずかしいがお国のために働くぞという意気込みはあまりなかったようだ。

初めて見る工場は大きく、中はやたらと広く旋盤やグラインダーがずらりと並んで騒音に満ちていた。
戦闘機のエンジンの弁の製造が主だった。
若い男性は兵士として戦場に赴いていたので、年配の工員さんと少年工員ばかりだった。
1ヶ月ほど研修を受けた。
記憶に鮮明なのはタガネをハンマーで打つ訓練でタガネを握った手をハンマーで叩いて痛かったこと。
余談だが現在でもタガネでコンクリートを壊すのは得意だ。
研修の期間中に適性検査なるもがあった。
その検査を担当したのは国立のK大の学生である。
兄も夫もそこの卒業生だから悪く言うつもりはないが、そんなことに何の意味があるのか?
屈辱感と腹立たしさを感じた。
その結果数人だけが研究所配属になりその他は工場で機械を動かすことになった。
口惜しがっていた友達もいたが私は機械のほうがずっと魅力的だった。

整列して機械の割り当てを待つ。 
係りの工員さんが右から数人を指して「製品の運搬をしてください。これは非常に大事な役目です」と言った。
その中に運悪く私も入ってしまった。
冗談じゃない、私はあの大きい機械を動かしたい!その頃から自己中の人間だった(反省)。
丁度、靴擦れで足をひきずっていたのを幸い、指示した班長に「足が悪いので変えて貰えませんか」と言うと彼は靴擦れごときとは思わず「気がつかなくて」と済まなそうな顔をして大きなグラインダーを割り当ててくれた。
チクリと良心が痛んだ。

グラインダーは旋盤で大体の形に削った弁をきちっと寸法通りに仕上げる作業だ。
弁を挟みスイッチをいれると大きな円盤のやすりが高速回転する、はさんだ弁を手動で加減しながら削る。
何回も途中でゲージで寸法を計りながら仕上げる。
うっかりすると削り過ぎてオシャカにしてしまう。 
さぞ効率は悪かったろう。

工場勤務は3交代制だった。 昼間、夕方から0時まで、0時から朝まで。
準夜勤と深夜業には夜食がでた。
食堂は別棟にあり、厳しい灯火管制の戸外は真の闇で見上げると星空が美しかった。
誰ともなく「き〜よし こ〜の夜 星はひ〜かり 」の歌声が流れた。
夜食の食前には祈りを捧げた。
先生は目立たないようにと注意したが誰もやめようとはしなかった。
仏教系の女専の学生も一緒の工場にきていたのだが彼女たちも食前にお経を唱和するようになった。 
それぞれのプライドがあったのだろう。

油まみれで働くことは苦痛ではなかった。 初めはもの珍しく面白くさへあった。

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