広島原爆の日
2020-08-06


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「被爆75年〓」
朝刊の新聞の見出しの文字に、解ってはいたのに遠い昔に思えて、そんな自分が情けなかった。
間に合わなかったが、独り黙祷する。

そのあと、自分のブログを見直したら、3年前まではチャンと書いているのに恥ずかしい。
そのなかの、10年前のブログの引用です。

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「原爆投下の日から65年」  2010/08/06

今年も8月6日がまた巡って来た。人類歴史上初めての原爆投下、あれから65年が経った。

毎年テレビの前で黙祷を捧げる。 8時15分だ。
あのニュースを聞いたときのこと、戦争が終わってから知った惨状と苦しみが迫ってきて息苦しい。

眼を開ければ参列している方々のお顔が暑い日射しのなかに見え、熱中症の心配をついしてしまう。
一瞬に現実に戻ってしまう自分に65年の歳月の長さを思った。

この日の夕方には疎開先の農村でも、
「広島に新型爆弾が落とされて全滅やて」 
という噂があちこちで囁かれ村中に広がった。

新聞にどう報道されていたか記憶がないが、
朝日新聞「世相75年」には終戦後
「原子爆弾 ウラン原子核の分裂 最少量で火薬二萬噸に匹敵」という解説記事が載っている。

当時は、もうお先き真っ暗、政府にいかに鼓舞されても絶望感で皆が疲れきっていた。

母が親しくしていた知人のお父さんが縁者を気遣って何とか切符を手に入れて広島の町を捜し歩いたが徒労だったと聞いた。
数年後、原因不明の病で亡くなられたとき、周囲は原爆のせいだと思ったが、きっと被爆者の数には入ってないだのろう。

夫が定年になり、二人で旅行したなかに 広島も入っている。
私はどうしても平和記念公園にお参りしたくて、渋る夫を説き伏せ早朝ホテルから歩いて行った。
初老の男性が独りだけでお参りしていた姿が印象的だった。

夫の思い出すのが辛い気持ちは解っていた。
戦争中の成年と未成年、積極的に参加した男性と間接的だった女性の感覚の差は大きい。

今朝の式典の中継を見ながら、行って体感してて良かったと沁みじみ思った。 
哀しみがあの時の風景とともに身体の中を通り過ぎてゆく。

(添付絵は2013年のブログに添付した小さなスケッチです)

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