受験シーズンに思い出すこと
2011-01-15


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阪神間には当時も公立、私立の女学校が多く有った。
本人の選択の余地はなく当然のように姉が行った学校と親が決めていて私もそんなものと不満はなかった。

今の私と違って自己主張したことがない。
洋服も学用品も「あれが欲しい」と言ったことなかったな。
当時はそれが普通だったのかも。 
私の一度だけの反抗は幼稚園はイヤだと首を振ったときだけだ。

後で聞くと母はミッションスクールの女学院に入れたかったそうだが父の「あの駅は混雑が酷い」の一言で通らなかったそうだ。

3学期が始まればクラスでも誰が何処の女学校を受けるかの情報が耳に入る。県立高女が5人、私と同じ女学校が5人だったのだけは覚えている。
大抵は滑り止めに入試日の遅い学校にも願書を出していた。
うちの両親は「大丈夫だろう」と志望校だけにしか出してなかったが落ちたら浪人するところだった。
現に一緒に受けた5人のうち2人が不合格になったし、県立高女には2人しか受からなかった。

学科試験なしの口頭試問と身体検査だけでどうやって合否を決めたのか子供心に不審だった。 内申の成績は殆ど一緒くらいだったのだもの。

口頭試問は先生方が5人ほど机を並べて座ってられて、その前に少し離れて椅子が一つ。 名前を呼ばれると練習した通りにドアを開け一礼して椅子に背筋を伸ばして腰掛ける。  緊張したな。
一つだけ記憶に残っているのは
「宿題が夜寝られないくらいいっぱい出たら どうしますか?」
反射的に
「やめて寝ます」 と答えてシマッタと思った。
質問されたのは姉の文才を認めてくれてた国語の先生だった。
「どうして?」
何と言おうかと咄嗟に考えたのが
「お国の為に大事な身体ですから健康を害してはいけないと思います」
心にもない苦しいこじつけだ。
先生は隣の先生と顔見合わせて、にやっと笑って私は凄く恥ずかしかった。
それでも幸運に合格した。

何日目かの朝、合格通知が届いたが父母は当たり前といった感じで感激シーンはなかった。
すぐに一緒に受けた友達を訪ねると
「まだ通知こないんよ」
と不安そうで、結局ダメで現実は残酷だとつくづく思った。

小学6年生は男子3クラス、女子3クラス有ったが私のクラスは健康優良児の日本一が出たし、甲子園での連合運動会でのリレーの代表選手は独占していて先生は鼻が高かったと思う。
でも受験では成績が芳しくなく浪人(高等科に進む)を二人だしてしまった。 そのせいか次の年は高等科の担任なられた。
女学生になってから友達と1度教室に遊びに行ったら不機嫌そうに「早く帰れ」と言われたのは高等科に進まざるを得なかった生徒達への配慮だったのだろう。

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