疎開先での日々
2010-08-13


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終戦の年に姉が赤ちゃんを連れて疎開先に帰って来た。
義兄は軍需関連の技術者だったせいか招集されずに工場に通っていた。
別居生活になったがあの頃の都会で子育ては無理だった。
母が病後で私も心強かった。
赤ちゃんは可愛い! でも特にあのキビシイ食状態のなかでは。
華やかな少女時代をおくってきた姉に初めて同情した。

母が村はずれに乳牛を飼ってる農家が有ると聞いて、早速別けて貰う約束をして来た。
毎朝貰いに行くのは私しかいない。
学徒動員で通っていた工場は既に一発の爆弾で崩壊し再会の目処はたたず、我々生徒は自宅待機中だった。

毎日、早朝に村はずれの小高い丘の上の農家まで通う日が続いた。 容器は何を持って行ったのか不思議と記憶が無い。
ただ 姪をオンブしていた。 頼まれたわけではない。
強いて言えば結婚した姉が不憫に思えたのだ。
絵や文の才能が豊かで世間にもてはやされた事も有ったし、素敵な義兄との結婚は特に母を喜ばせた。
歳が離れているから殆ど話した事のない姉妹だったが、結婚した姉を見て大変だなあ と内心思った。
そんな想いは口に出せない。
「○○ちゃん 連れて行くからね」
と素っ気なく言って、産まれて初めて赤ちゃんをオンブした。
こんな経験はこの時だけだ。 都会だったら恥ずかしかったかも。
村のメーンの街道を抜けて淋しい山道の奥にその家は有った。
粗末な家の土間に面した部屋で初老の男性が囲炉裏に大きな鍋をかけて牛乳を沸かしていた。 一人暮らしらしい。
無愛想なのはお互い様で、ともかく牛乳を別けてもらって帰る。
往復1時間以上かかった。
帰宅すると姉と母はまだ寝具を片付けながら楽しそうに談笑している。
内心、姉が いっとき解放されていい時間が持てただろうと想像して私も嬉しかった。

毎朝通っているうちに段々ご主人と言葉を交わすようになった。
内容も、牛乳の値段も覚えていないが見かけよりいい人だった。
後日、私が忙しくなって行けなくなったら、私でないといやだって話してると伝わって来て驚いた。 心開いてくれていたんだなぁ って嬉しかった。
それを聞いた父が妙に感心していたそうだ。
無口で自分の世界に閉じこもってる私を気にしていたのだろう。
あの小父さんも偏屈の同類項だったのかもと想像する。
今の世なら危ない想像されるかも知れないけど、そんな心配皆無の閉鎖社会だった。
黙々と赤ちゃんをオンブして土ぼこりの舞う田舎道を歩いていた少女の姿が懐かしく瞼に浮かぶ。

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